今夜の家ご飯



●マスタード風味のチキングリル
●ゴーヤチャンプルー
●山芋のサクサク梅和え
●たっぷりモズクの天ぷら
●手作りジーマミィ豆腐
●ひじきの煮物
●ミミガーキムチ
●切り干し大根とシャキシャキ島ラッキョー漬
アーサーのお味噌汁
さぁ!ウサガミソーレ。



あれ!ジョッキ一気飲み!
カキンと冷えた 生が喉ごし グビッと、たまりませんね。

GWエンジョイ方法



マリフェスで来ると約束された 〇田さんと〇藤さんが 渡嘉敷島に来てくださいました。
GWのスタートから ケラマの海で リフレッシュされました。
渡嘉敷島って 遠いようで 近いんですね^^o
那覇空港に着いてしまえば 15分かからずに泊港。
高速船に乗って 35分で渡嘉敷島に到着。
いつでも パピュ〜っと 飛んで来て下さいね。
爽やかな高気圧ボーイの お帰りの日
梅雨入り宣言した沖縄を 快晴のまま過ごされました。

ワクワク度数上昇中!



気温 24゜
太陽と 爽やかな風(といちいけど少し強い風、ああ無情)
サンサン光線君、遠慮しないで 光って下さい。
明日は 明日の風が吹くけど 今を楽しんで 今日という1日を、完全燃焼して下さい。
暑からず 寒からず
ウリズンの季節
ゆっくり時間の海を 渡っていきましょう。

GWのお天気



予報が出ました。
GW今日の予報では 気温うなぎ登り。太陽サンサンで~す\(^^)/
今日は、マザーテレサの言葉から。
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

鬼慶良間のお話



参照・国立沖縄青年の家『とかしき民話』から
鬼慶良間(ウニギラマ)と阿波連弁慶(アハレンビンチー)のお話です。
昔 昔 とてつもない力持ちの人が 渡嘉敷島の外から やってきたそうです。
あまりに力持ちなので 鬼慶良間(ウニゲラマ)と呼ばれました。
しかし優しくて 島人のことを 良く考えてくれたそうです。
昔は 餓死する人もいました。
すると 西山の一帯に蘇鉄を 植えさせたそうです。
『飢餓ではない間 毎年その実を取って 分けて食べなさい。だけど、そんなときでも幼木を取ったり、全部一度に取ったりしたらいかんよ』と教えたそうです。
渡嘉敷島の地元、阿波連には、やはり阿波連弁慶という 力持ちがいました。
互いに勢力争いをしたそうです。
渡嘉敷から阿波連へ行く途中に、小さな川が流れていて 着物を濡らしてしまうので 鬼慶良間が木の橋を架けたそうです。 
すると 阿波連弁慶が 踏んで折ってしまいました。
次に鬼慶良間は 1つの石を肩に担ぎ、1つを脇に挟んで持ってきて 石の橋を架けたそうです。
また 阿波連弁慶が来て 踏みましたが 折れないので 『お前に 負けた』と言ったそうです。
さて、阿波連弁慶は『ひとつ相撲をとってみよう』と言ったそうです。
阿波連弁慶は ヒランシーという海岸に立って 竹をしごいて 帯にして巻きました。
鬼慶良間は何もつけません。
『なぜ何の帯もつけないのか?』というと『『この勝負はやってみたらわかるよ』と言いました。
2人はずっと見合っていたそうです。
岩の上には、ちょうど人間が 立っていたように ひっこんだ所が 2つ残ったそうです。
現在 岩は取られて なくなってしまったそうです。
さて、鬼慶良間には 子供がいませんでした。
自分が住んでいた門中の人を 集めて『墓を造ってあげよう』と 石運びを始めたそうです。
上が屋根の形をした 破風型を造ったそうです。
普通お墓は ひと組ですが そのお墓は 入り口も中も ふた組になっていて、中でお膳のやりとりが出来るようになっていたそうです。
鬼慶良間は、大きく長い石を 八つ持ってきたそうです。
その八つ目の石を運んでいる途中で 亡くなったそうです。
死ぬ直前に 『私はこの病から逃げることはできない。 私が死んだら あんた方でこの墓石を持ち上げてなさい。 この墓石をあげられない時は、鬼慶良間リヤーヌエイと掛け声をかければ上がるはずたよ』と言って亡くなったそうです。
皆でリヤーヌエイと掛け声をかけると、石がきれいに持ち上ったそうです。
鬼慶良間は元気な時『このお墓を造っても、私を入れないでくれ。別のところに入れてくれ』と言ったそうです。
何故 自分で造ったお墓に入らなかったかというと、よそから来た人だし
自分の故郷に帰ろうと思っていたからだそうです。
それでも鬼慶良間は 村のターチ墓の横 別にお墓が造られ祀られたそうです。
やがて、お墓の前に お宮が建ち祀り 渡嘉敷の世主加那志(ゆーぬしがなし)と敬られています。
さてさて、日本の童話では 鬼がつくと悪者、弁慶がつくと 豪傑な守り主ですが、渡嘉敷島の鬼慶良間だけは ちょっと違うイメージで観て下さいね^^。

ウニギラマ伝説から大谷辻歌碑建立



渡嘉敷島に着いて 南海岸に向かっていく途中
民家を抜けると 直ぐ水田が広がっています。
昔は 小さな川が流れていて おかげで穀物が穫れる水田に なりました。
その水田を渡った直ぐ山脇に 大きな石がドンと展示されました。
碑には 歌が刻まれ “鬼慶良間うふなー橋記念”として 大谷辻歌碑が 建立されました。
大谷辻(うふたんちじ)の謡には 島の情景や、稲作の様子を お年寄りによって 古謡として ウシデークで歌い継がれてきました。
全5番の歌詞でしたが 故・新垣重孝・克子夫妻が9番まで追加(どうりで語彙調が変わってる訳です。5番までは村内の美しい情景、6番から観光の明るい展望が感じられます。納得)
この故・新垣重孝さんは、とても思慮深く 美形(イクメン)紳士で歌が上手(そう私の夫と同じ(^^#) 素晴らしい人物でした。
三線曲は 故・滝原康盛さんによって編曲されると 現在の大谷辻歌として
島の発展を願う 祝い事などに歌われるようになったそうです。
歌の上手な男性陣が 三線片手にずらりと並んで 唄う姿が 威風堂々 素敵でした。
さて、除幕式です。
『乾杯!』

回想



10時フェリー乗船。
慌ただしく 2年振りの里帰りを終えて 太陽に(あれ~?曇ってる)
船旅に一休止しながら 回想録。
従姉妹や大学の仲間・旧友キッちゃん・職場の先輩連・三田の優和
濃~い数日間。ダンディな鳥越俊太郎さんともゆっくりお話できたし
日本橋に生また父の歴史を繋ぐ 東京駅にも降りた。
修復された 赤レンガと白御影石の柔らかなアーチの 丸の内を 眺めていたら、 父が風になって 一緒にいる気分になっていた。
1日2万歩は歩いた父の健脚が、自由を奪われ 沖縄に環境を変えた事、胸が痛んで(お父さん)。
去年、豪雨の佐賀でノスタルジックな 旧唐津銀行の景観が (同じ尖塔やアーチ)丸の内駅とかぶり…。
隣接のkitteに入ると イギリスで学んだ 辰野金吾と曾〇達蔵という、佐賀唐津出身のお2人の(ジョサイア・コンドルを含め)建築だと知り
導くように 父が楽しそうに笑っている気がした。
丸の内駅、百年の建築を 目に焼き付けて 船に揺られている。